このコラムではメンバー7人が日頃感じたことなどを気楽な読み物として綴っていきたいと思います。
現在地点
報道で目にするアフガニスタンの戦況では、ロシア製・中国製の中古兵器のオンパレード。たいした戦力でもないゲリラ部隊をことさら大きく喧伝し、千倍以上の戦力差が剥き出しになる米軍の海上プラットフォームである空母任務部隊の映像はほとんど目にしない。
ベトナムで懲りたのか、報道規制を強め、全世界の視聴者に傲慢と取られないように非常に気を使い、米国内での反戦ムードを起こさないように損害の出やすい地上戦は土人同士にまかせる。
日本では帝国海軍以来の西域派遣艦隊の編成が、主力艦であるミサイル護衛艦が入る入らないでもめた。実際はいわゆるイージス艦(金剛/こんごう・霧島/きりしま・妙高/みょうこう・鳥海/ちょうかい)が行かなくても、最新鋭の雨型(村雨/むらさめ・五月雨/さみだれ・夕立/ゆうだちクラス)が行っているのであるからほとんど無意味な論争。同時攻撃目標数が少しばかり減るだけで、実はほとんど同等の機能を持つ。現代の水上艦隊の主力は航空母艦。空母を空対艦ミサイルから守るのがミサイル護衛艦の使命。日本には空母は無い。守るべき物が無いのに行っても仕方が無い。米国にはイージスシステムを持つ水上艦は売るほどある。日本のイージス艦よりはるかに高性能のタイコンデロガ級イージス巡洋艦が23隻、日本のイージス艦を上回る性能のアーレイ・バーク級駆逐艦は57隻建造予定で30隻が起工、10隻以上が完成している。性能が劣る日本製イージス艦の1隻や2隻来たところで何の関係もない。
「自衛隊」のことはジェーン海軍年鑑を始めとして、世界各国では日本軍と規定し表現している。「日本帝國海軍・インペリアルジャパニーズネイビー」と言わないだけで、どこでも「ジャパニーズネイビー(日本海軍)」と呼ぶ。「自衛隊」などと言って安心しているのは日本人だけ。
駆逐艦クラスの艦艇を「戦艦」と呼称する認識不足の国内の報道機関。「兵器」を「武器」とわざと矮小化し発言する政府。飛車角(原潜・空母)抜きではあるが、金銀桂香を大量
に持つ日本は、海軍力では世界3位。実戦の経験がないから当面実力はたいしたことはないだろうが、場数を踏めば強力。(太平洋戦争でも実戦皆無の軍人が大多数であった)
最近、戦後50年を経て、当事者や関係者その遺族などが亡くなり、いろいろな意味で隠蔽されて歪められて伝えられてきた情報が公開され、我々が聞いて、事実として認識してきたことが意図的に操作された偽情報とわかったことが多い。その最たるものが、旧海軍メンバーらによる穏健な保守層の温存と天皇制温存を図った、終戦工作の顛末であり、陸軍悪玉
・海軍善玉という意図的に作られてきた戦後の構図が、慎重にはがされようとしてきている。その他にも多々あるが、例えば、日本軍機と連合国軍機の被撃墜比率などは、信じられない数値を示す。零式艦戦に代表される日本軍機とグラマンに代表される米軍機との戦いの戦後つくられたイメージでは、「撃墜しても撃墜しても物量
で押してくる(ので負けた)」という感じであるが、事実は異なり、米国国務省公開文書によると、米軍機の損害はけた違いに少ない。昭和17年までの被撃墜比率は日本側855機に対して米国266機の割合である。1943年には日本1,239機対米国233機、1944年には日本4,024機対米国261機、1945年には日本側3,161機対米国146機である。最終的には1942年から1945年までの合計では、日本が9,279機対米国906機、比率にして10.2対1にまでなる。当然被撃墜比率であるから、地上で爆砕された分や、航空母艦もろとも海没した分は含まれていない。米国の公表した数値は、そのまま鵜呑みに出来ないとしても、我々が持ってきた認識とのずれは大きすぎる。これでは日本機は離陸したら最後ほとんど米側になぶり殺しである。日本連合艦隊の真珠湾ともいわれたトラック島が米国機動部隊の空襲で壊滅するのが昭和19年(1944年)2月のことである。トラック壊滅の報にラバウルに展開していた最後の航空隊が撤退するのがそのときであるから、いままで見聞した話では、それまでは劣勢とは言え互角に太刀打ちし、ソロモンやニューギニアで制空を競っていたはずである。それがあの被撃墜比率では、それらはほとんど空想か御伽噺でしかない。私は1996年にガダルカナル島とニューブリテン島のラバウルに旅に行った。ラバウルで零式戦の残骸を手にして、そのジュラルミンを一部折って持ち帰った。(5cm位
)それは主翼外板ですら親指で簡単に折れ、発動機(エンジン)が脱落していた機体は持ち上げられると思えるほど軽く脆弱にできていた。よくこんな機体で激しい空中戦のG(過重力)に耐えられたものだと感心したほど。一方、ガダルカナルでは米国の艦爆(ドーントレス)の残骸やF4U(コルセア)やP38(ライトニング)、P39(エアラコブラ)、F4F(ワイルドキャット)などの残骸を手にしたが、その外板は両手でも折れない位
厚いものであったうえ、空気抵抗に関係の無い部分、例えば主翼裏側や胴体では「枕頭鋲」は使われていないのを見た。機能に関係が無く、量
産の障害になる過程は省く。他方日本機は全て「枕頭鋲」で、あたかも名人の作った工芸品のような仕上げ。ここに使用目的が理解されないで、作ること自体が目的化されているのを見るのである。日本人の性質か。
艦船の構造にしても同様。我々は日本の造船は世界でもトップクラスであり、「古鷹」「妙高」特型駆逐艦などで革命的な技術を誇り、「大和」型戦艦においては世界一であると信じていたが、それらは敗戦後一部の指導的立場にいた人達が意図的に流布した虚構であり、その構造は、多数の兵器を無理に搭載するために船体構造が脆弱で、被害を受けると簡単に沈むものであり、マスプロの米軍艦船のほうがはるかに強靭で、船体・機関・兵器あらゆる面
で劣っていたことを知る。
攻撃兵器の搭載に偏重し、防御がないため、ダメージコントロールが不備で、そのうえ設計上の欠陥(機関部縦隔壁や電路配置の欠陥)も多く、こちらの攻撃が通
用するときはいいが、相手の防御が優れ、攻撃をはじき返され受身に廻ると脆く、実にあっけなく沈む。軍用機も同様。発動機の出力が低いのを補うため軽量
化に走り、その結果無防御に等しくなるが、反動で(命中率の低く、帯携弾数の少ない)大口径機銃を積みたがる。汎用性に劣り、目的を特化し、それ以外に対しては攻めることができないうえ、防御もできないようなものばかり作りたがる思考。自己中心で虚像をつくり、相手を考えない思考。どうも人命軽視とか言う以前に、日本人全体の思考に欠陥があったのではないかと思わざるを得ない。目的と目標が理解されないで突き進み、意地と面
子で凝り固まる性質というか、合理的ではない精神構造というか、何とも表現しがたいものがある。
関係者が死んでようやく日の目を見る事実。これもまた変である。政界、経済界とぐるになった戦後日本に本当の意味での総括はあったのか。防衛庁戦史研究室の地下に眠る100以上の木箱に入った未公開文書。アメリカから返還されても公開されないこれらの文書には、一体何が書いてあるのか。東京裁判で実刑判決を受けたA級戦犯のうち、旧海軍軍人は2名のみ。全て都合の悪いことは旧陸軍に押し付け、GHQとの取引の結果
、穏健な保守として旧海軍人脈が戦後の政治・経済界を形成する。それでもその連中が鬼籍に入り、戦後50数年を経て、やっと、身贔屓無しの冷厳な事実を見れる時代にきたのである。中国との戦いでその国力のピークを迎え(昭和14年)、次第に国力が衰え出した時期に日米戦が開始される。生産力は落ち、一番手軽な小銃の銃弾すらその所望数に生産数が追いつくことはとうとう無かった。ましてや大型の兵器や火器にいたっては当然であるが、もともと国力が矮小であり、それらは仕方が無い。問題にしたいのは生産力よりも、我々の技術力や構想の貧困さのほうなのである。冶金、石油精製、エンジン構造、精密化学、分子工学、電波・電気関係、科学、工学あらゆる分野で劣り、欧米のコピー品以外では展開できない、新しいものを作る力、発想がなかった点は忘れてはならない。国力うんぬ
んの以前に完璧な敗北であったのである。日本は軍事面での絶頂期に夜郎自大になり、目を塞ぎいろいろな意味で発展を忘れた。当時を「狐に酒を飲ませて馬に乗せたような」という比喩を使って形容した歴史家がいたが、日本は有頂天になり、自惚れて自滅した。国内でのみ通
用するような勝手な価値におぼれ、いざ戦争になると、中国大陸でも太平洋戦線でも相手に良いように鼻づらをつかまれて引きずり廻されるのである。明治に日本が開国してから数十年しか経ていない、もともと木に竹を継いだような根の浅い文明であり、勘違いをし、もう西欧に教わることは無いと思った時点で壊滅への道をたどったのは、たかだか50数年前のことである。
バブルの絶頂期と現在の後退期は何となく当時の二重写しに見える。アジア回帰や日本での貧困な流行を何と見るか。またもや自閉した世界で壊滅に向かうのか。世界ではおそらく我々が発想も出来ないような、途方も無いレベルでの新しい仕掛けを着実に進めているに違いない。突然あらわれたそれらに簡単に牛耳られられ、軽薄な追従を繰り返すのか。経済の主導権もあけわたし、文化も低次元のレベルのまま思考停止。苦しい戦いの経験があった明治時代の人間が存命中は、無茶なことはしなかった。それが大正時代には風化し、昭和世代となるともういけない。無茶苦茶になる。戦争とは職業軍人のやるもの、戦闘行為は最前線のことで、我々には関係ないと思い、結構能天気にかまえ、空襲で初めて現実の問題ととらえ、戦いに止めを指される「原子爆弾」が登場してくるまで勝つと信じていた当時の内地の人々といまの日本人と能天気さではそう違わない。太平洋戦争の地図でいえば、バブル期は日本軍の戦線が最大に拡張した時。東はウェーク・マーシャル・ギルバート諸島。南はポートモレスビー侵攻を企てオーストラリア沿岸まで進出、西はビルマを席巻し、アキャブ、インド、セイロンを狙い、潜水艦によりアフリカ沿岸マダガスカル島を攻撃。北はアリューシャン列島のキスカまで。それがあっという間に縮小し、マーシャル・カロリン粉砕、マリアナ失陥、硫黄島陥落、沖縄全滅、原爆投下で終わる。さしずめ今はマリアナ諸島サイパン陥落あたりか。昭和の戦争体験者が減り、平成の狂乱時代。全然歴史に学んではいない。IT関連の壊滅は、確実に主導件があちらに渡っていたこと事を示す。新しいソフトやシステムはあちらサイドで決まり、日本は無条件で追従するしかない。生産は中国が巨大な世界の工場となった。経済のレベルでは既に日本は退場である。世界から「いらない国」扱いされつつある日本。IMFのお世話になった韓国を笑えない。最近出張で香港に良く行くことがある。お台場の展示会場(ビックサイト)の数倍の規模の展示場で、世界中から数万規模の人間が集まり商取引を行なう。そこでは西欧人は中国しか見ていない。日本なんか相手にされていないと感じる。ドイツ・フランクフルトでも同様に感じた。東南アジアは「大中華帝国」化しつつあり、アセアン各国は中国の意向を無視しては存在できない体制になりつつある。中国語が共用語になってもおかしくはないほど。実際、香港では結婚による同化政策が着々と進み、イギリスの植民地色は薄れる一方であるし、シンガポールは中華系、マレーシア、インドネシアも中華系が中枢を占める。世界では英語か中国語しか通
用しないエリアが拡大している。世界で日本語がかろうじて通じるのは台湾とハワイだけ。その台湾もアメリカしか見ていない。日本統治時代の良き思いで(台湾は戦場にならなかったので、珍しく親日感情が残った)を持つ世代は少なくなり、アメリカとの商取引慣習が身に付いたアメリカナイズされた世代が多くなったこの国では、もはや親日感は薄い。日本が戦後唯一築き上げた経済大国の地位
も危うい。日本人から金を取ったら何が残るのか。どうも日本人は忘れやすく、同じことを繰り返す。せめて思想の上では互角にと考えても、その思想すら西欧の輸入品であり、我々は完全にそれを租借し自分のものにしているとは思えない。美術でも同様。少なくとも我々は状況に振りまわされずに考えを深めること。薄っぺらな情報に操作されないこと。深く静かに考え、制作すること。
後藤寿之
音色のこと
独自の音色というものがある。これはいい音色とか悪い音色といった事ではない。例え ば、2、3年前に亡くなったレスター・ボウイというトランペッターがいる。彼はテクニシ ャンと言われる類ではないが、聞けば彼とわかる音色を持っていた。所謂フリー・ジャズ の創生の頃、シカゴから出現したアート・アンサンブル・オブ・シカゴのいち中心人物とし て様々な活動をしてきた。黒人としてのアイデンティティーについて、様々な歴史との距 離の問題などなど、そういったラディカルな彼のイメージ総体を背負った音色でなく、ま た音の波形といった物理的なものでなく、空間の中の確実な存在のようなもの。情緒とは 大きくかけ離れた、具体的なありかた。それは、セロニアス・モンクのピアノの音色にし てもエリック・ドルフィーのリードの音色にしても同じだ。フレーズ・メロディー・タイ ミング・グルーヴ、それらの要素の錯綜した総体にも非常に感動を覚えるが、それら総体 が音ではない。確実に沈黙からノイズを許容する空間の中に具体的に在ることの出来る音。 様々なエレメントの織りなしや、アプローチの考え方ではなく、一挙に獲得するもの。そ んな音色はシンプルでソリッドだが、獲得は容易なことではない。
大塚新太郎
「作品の賞味期限」 ─アンディ・ウォーホール展所感、そしてマーク・ロスコ─
新潟市では、21世紀の幕開けはポップアートと日本画の「花鳥風月」であった。 昨年2月6日高知県立美術館を皮切りに、全国各地の都合7美術館持ち回りで開催されたアンディ・ウォーホール展、最後の開催となった新潟市美術館のレセプションに出席。正月4日のオープニングとは異例とのこと。おかげで帰省ついでに見ることができた。学芸員のT氏、M氏とも久し振りに挨拶を交わす。 午前中の入りは招待客、一般客合わせて40〜50名といったところだろうか。ちなみに、日本画の「花鳥風月」展は大手百貨店ギャラリーの新春企画展、他にも加山又造展であったか、をやっていた。 ウォーホールといえば「ジャッキー」(ジャックリーヌ・ケネディ)「マリリン・モンロー」などの反復的なシルクスクリーンで有名であるが、デビュー前のイラストレーションと初期の油絵に興味を引かれた。そのシンプルで丁寧な線描に、造形力の確かさを感じる。
新潟の冬は、物体の色彩が雲と雪によって奪われる。実はウォーホールの作品に、色彩
による身体への刺激を期待して行ったのだが、期待は見事にはずされた。むしろウォーホールの作品を、美術館という展示を目的とした空間で見ることに妙な違和感を覚えたのである。そこにはかつて雑誌や書籍、画集などで見たものを、そのまま大きくしたものがあった。つまり、複製で見た記憶以上のものを期待しても、そこにはそれ以上のものはほとんど何もない。あたりまえであるが、実物自体が版画という「複製」なのだ。ウォーホールの作品に、泰西名画と同じ芸術を見ようという気は全くないが、その見事なまでにワルター・ベンヤミンの予見が適用される様を見るのは、いささかショックであった。
他の版画芸術が、絵画を意識した形で意味を補強しているのとは全く違う。そこには、ニヒルなまでに非芸術(?)を貫こうとするような透明感すら漂う。ウォーホールの作品に、ディテールをのぞき込もうとする視線は常にはね返される。いや、我々は作品からウォーホールの<眼差し>を選びとることができないといった方がいいだろう。
しからば、我々はウォーホールの図版ではなく、美術館に展示された実物のシルクスクリーンに対面
して何を見るのだろうか。ハリウッド・スターやマイケル・ジャクソンの像に象徴的記号でも。しかし、それすらも拒否される。
ジャックリーヌがケネディからオナシスとなることで、その像の反復性は実体との差異を増幅させた。悲しみのジャッキーの像は我々に古い記憶を呼び起こす。しかしそれは、画面
の造形性から還元されたものではない。
ピンナップ写真を散りばめたような展示空間は、やがて子供達に飽きられて菓子箱の四隅に、かつて美味しかった記憶とともに散在する、賞味期限の切れたポップキャンディのようであった。
賞味期限といえば、ウォーホールとマーク・ロスコの出会いのエピソードは示唆的である。 「1960年代初め、日曜日のグリニッチ・ヴィレッジを友人のルス・クリグマンはアンディ・ウォーホールと歩いていた。二人はロスコとばったり出会う。クリグマンが『マーク、彼がアンディ・ウォーホールだ』と紹介しようとすると、ロスコは背中を向けて、無言のまま歩き去った。」(『マーク・ロスコ─あるべき絵画を求めて』広本信幸、マーク・ロスコ展図録より)
広本氏によれば、「根源的な人間感情の表現」を絵画に求めたロスコにとって、当時にわかにわき起こってきたネオダダ、ポップ、ミニマルは美術と認められる代物ではなかった。「特にポップアートは、嘔吐をもよおさせるほど嫌悪していた。」
1961年ニューヨーク近代美術館で回顧展をおこない、名声を確立したロスコであったが、早くも翌年契約画廊のシドニー・ジャニスはリキテンスタイン、ウォーホールなどポップアートの作家達の展覧会を実施し、それに抗議する形で自ら画廊を離れる。
さらに1963年、新装のジューイッシュ美術館はユダヤ人のロスコではなく、ラウシシェンバーグの回顧展、よく64年はジャスパー・ジョーンズ展、そしてロスコのコレクター達も相ついでポップアートに手を出し始める。ロスコは、自分の作品の賞味期限が切れたと思ったかどうかは知らないが、美術市場における賞味期限切れを明快に突き付けられたなかで、1970年自殺する。
今われわれは、川村記念美術館(佐倉市)の「ロスコ・ルーム」で、“ロスコ絵画”の一部ではあるが上質の部類を堪能することができる。
静謐で内面的な画面は、色彩の現前であると同時に、色面
のエッジのぼやけた処理に厳密な意識の存在を感じさせつつも、軽やなエコーを奏でながら展示空間全体に拡がり、見るものの視線を画面
から離さない力がある。見る者は無意識に見えないものを見ようとするという、偉大な芸術作品に共通
な質をもっている。
つまり、マーク・ロスコの作品は賞味期限といった一時の流行とは無縁なのだ。
余談ではあるが、ロスコとウォーホールの出会いのエピソードにおいて、無視された側のウォーホールはどのような反応を示したのだろうか。
ウォーホール展の図録にも、前述引用の広本信幸氏が「アンディ・ウォーホール─芸術の条件」というタイトルでバイオグラフィーを書いている。それによれば「敬愛する大画家にこのような態度をとられて、ウォーホールのショックがどんなに大きかったことか。屈辱感よりも寂しい思いの方が強かっただろう。」と記している。
「…アンディはロスコが好きだった」のである。そして、「芸術家アンディ・ウォーホール」は作品ほどポップではなかったようだ。
2001.3.7 市川和英
脚注─「…ワルター・ベンヤミンの予見…」とは無論、有名な論文「複製技術時代の芸術作品」(1936)で読まれているところの、もっともポピュラーな論旨、「オリジナルとコピーの差異の消滅」─「アウラの消滅」─「礼拝的価値から展示的価値の増幅」などをさす。ついでではあるが、多木浩二著『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫)を読むと、この論文のラディカルな時代的意義が浮かびあがってくる。
■ABST(アブスト) それは、われわれのグループ名(チーム名)ですが
抽象、abstraction、アブストラクションから由来します。
最初のメンバーの集まりで抽象というキーワードが浮かび上がり残りました。
その後、写真集や書籍を製作するにあたりグループ名を視覚的な観点からも含め、現在のABSTに落ち着いたわけです。
グループといっても緩やかな集合体であり、あくまでも個人が主体です。
しかし、少なからず全員に共通していることは「はたして、日本に抽象は存在したのか?」という疑問です。
それは言い換えれば日本にモダニズムは存在し得たのかということです。
モダニズムはあくまでも西洋の枠組みですが、それを単純に否定し、乗り越えたかのように振る舞い、簡単に日本やアジアに戻れるのでしょうか。
そんな疑問や苛立ちから出発しています。
1998.11.11 ・ ・ 1999.3.17 1999.4.21 1999.5.26 1999.6.30 ・ 2000.10.22 ・ 2001.1.31 |
神田にて初の会合(後に藤枝晃雄さんを交える) 以後月一回のペースで会合を重ねる 銀座にて会合(谷川渥さんによる講義) 銀座にて会合(グループ名をABSTとする) 銀座にて会合(写真集タイトル「抽象することの意志」決定) 銀座にて会合(早見堯さんによる講義) 横浜にて会合(ポートサイドギャラリー) 銀座にて会合 |
01.2.13 gocho